気品
- 拳法は「礼に始まって礼に終る」と云われるが礼儀を離れて気品はない、如何に乱捕だけに終始しても気品は生れないものである。然らば気品とはどんなものであるかと云われると容易に謂いあらわし難い、気を花に譬(たと)うれば気品はその薫りのようなものではあるまいか、気品は正しい心澄んだ気から自然に発する得もいわれぬ気高さにある、三昧の境地、無念無想の境地に這りこんだ時ほど気品あるものはない。
以上は昭和41年新聞『少林寺拳法』に掲載された三崎敏夫氏の文章『風格ある演武』の一節である(HP「丸廉」より引用)。
気品とは花の香りのようなものであるならば、その花がどういうものかで香りが決まる。つまり、人がどういう人であるかで、気品が決まるということである。
普段の稽古を振り返って自分が他に対してどういう人であったか、それを検証していけば気品があるかどうかは自分自身でわかるだろう。
黒帯ともなれば、そんなことも考えて行動しなくてはならない。指導の仕方、立ち振る舞い、道衣を脱いでからの少林寺拳法を離れた時の行動(ここが最も肝心)は、気品を決定づける大きな要因である。
かつて、開祖が関西地方の全道院長・支部長をに弁当の食べ方について「犬食いするな!」と一喝した話がある(「少林寺拳法五十年誌 第一部 254ページ)。ここには「たかが食事の仕方ぐらいと思うなよ。人はこういうことで、人柄を判断するんだ」ともある。
「風格ある演武」をするには風格ある人にならなければできない(と思う)。そのためには気品ある生活を送らねばならない。学生諸君は授業中に居眠りをしている場合ではない。黒帯社会人は後輩を薫陶し立派な日本人にしなければならない。もちろん風格ある演武も見せられないといけない。
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