共感力

最近、共感力の欠如を様々な場面で感じることが多い。共感力と表現したけれども、今や「共感する」ことは、ひとつの力になっている。つまり、以前は誰でも持っていたものだったけれども、今は誰でも持っているものでなくなったということである。

例えば、今現在、北海道の高等学校では学校祭準備真っ盛りである。教員や何か製作するクラスの責任者生徒、なにか企画している責任者生徒などから見れば、当然皆手伝ってくれるというのが人の情である。だから責任者を引き受けているわけでもある。「勝手にやって」では引き受けられない。
ところが実際は、責任者が決まったら「勝手にやって』という状況に近い。5時だから帰る、部活があるから部活に行く、用事があるから帰る・・・。残ったのは責任者とその友達2名程度、作業は進まない、なんていうことが多い。
部活や帰る生徒にも言い分はある。しかし、今の責任者の立場を自分に置き換えて考える、すなわち共感力を使えれば、その場を離れることはできないはずである。現にその場を離れず手伝う生徒も少数だがいる。そういう職員もいる。

このことを少林寺拳法に置き換えてみると、技がうまくかからないという場合は、パートナーの共感力が不足していることがあるかもしれない。例えば「内手首を捕る」という攻者の行為も、引くとか押すとか捻るとかをすると、綺麗に技がかかる(ことが多い)。
しかし、手首を握るだけでは技をかけるのは至難の業である。攻者の力を利用するということができない。崩しもうまくいかないことが多い。
だから、しっかりと攻撃をしてまずは基本的、簡単な状況から稽古しないといけない。それは、攻者がパートナーの上達したいという気持ちに共感するということである。そういう心構えがないと合掌礼は、タダのパフォーマンスである。

東日本大震災で日本各地に支援という共感が広がった。その前にもタイガーマスクとなって各地にランドセルを届けるという善意の共感が広がっていた。
少林寺拳法は常に共感力を持つべき団体であり個人である。震災を機に・・・ではなく、合掌礼の度に共感を心がけたい。法形演練は単なる技の上達を目的にしているのではあるまい。

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