トーナメントとリーグ戦をしない乱捕

一番を決めるためのトーナメントやリーグ戦さえしなければ、乱捕は非常に重要な稽古である。
乱捕を戒めるのは、一番を決めるために、すなわち一人の勝者を決めるために稽古をすると、いつの間にか人を蹴落とすとか、利己的な人間になるとか、勝つためなら善悪を問わないといった人間が育つという心配からである。
ということは、一番を決めるような乱捕をしなければいいだけの話である。適当に相手を変えて乱捕をするのがいいのである。

トーナメントやリーグ戦で一番を決める、あるいは予選をしていって一番を決めるというのは、度を越すとやはり弊害がある。
これはスポーツに限ったことではない。最近は芸術でも一番(?)を求めたがる。
身近にある吹奏楽はいい例だろう。地区大会に出て全道大会に進めなければダメ。数名の審査員が良いか悪いかを判断する。そこには音楽性とか自己表現とかではなく、「一番」をとるという競争だけがある。もちろん審査員はそういう事を強要しているわけではない。演奏する側の問題である。
書道も自分の心にある言葉を書くのではなく、先生の書いた意味もわからない手本を徹底的に写す。そして、どこそこの会派の展覧会に出して入選した、特選だ、と賞を取らないと意味が無いような。
こういうのでは情操教育もあったものではない。相手に勝つことばかり考えているのである。

少林寺拳法に置き換えると、大会で賞を取らないと稽古の意味が無いという事態である。
もし、少林寺拳法がそういう団体であったならば魅力もなにもあったものではない。少林寺拳法は稽古そのものに意味があるし、それを包含する金剛禅に意味がある。だから、大会に出て賞を取らないと意味が無いということはない。もちろん取れたらそれはひとつの結果なので、否定されるものではない。否定されるべきは、大会が目的になってしまうということである。

この目的がいつの間にか変化してしまっているのは、乱捕が一番を決める種目となってしまったことと何ら変わりはない。大会の有り様も考え直す時かもしれない。

乱捕は昇段試験の時しかしない、なんていう拳士は強いのか?黒帯であれば強くなくてはいけない。「武」は「二つの戈を止める」力である。宗門の行だからと言って、乱捕を避けるのはすでに宗門の行ではない。乱捕は人と争うのではないのだ。

一番を決めない乱捕は、開祖が戒めた乱捕ではない。そもそも開祖は乱捕自体を禁じたわけではない。そんなことは副読本を読んでもわかることである。だから思い切って乱捕をしっかりと行わないといけない。
「海で泳ぐのに海のことをすべて知ってからでは、永遠に海では泳げない」とは誰が言ったかわからないけれども、確かにそのとおりである。
乱捕をするのに乱捕のことをすべて知ってからでは永遠に乱捕できない。未熟だろうがなんだろうが、乱捕しないことには始まらない。
魅力ある強い少林寺拳法を作るには乱捕が絶対に必要である。

滝川道院と砂川道院では乱捕しないと稽古が始まりません。ときにはクールダウンではなくクール乱捕があります( ・`ω・´)。

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